車いすとドッキング 移乗機器開発への想い

 

私は工房Ryoの介護福祉機器の開発を担当している霜出昇吾(しもいで しょうご)と申します。

私の祖父の話しをさせてください。

 

老々介護の日々

私の祖父は享年85歳でした。

祖父は持病の肺気腫に加え、糖尿病、肺がんを患い、最期を遂げました。

生前、長崎県の平戸という土地で祖母と二人で生活していました。祖母が介助をしていました。

一番苦労したのはトイレの介助だったようです。祖父はどうしてもトイレで排泄をしたかったようで、祖母に肩を貸してもらいながらトイレに行っていたようです。幸いにして祖父は小柄だったので祖母も何とか手を貸すことはできましたが、徐々に祖父の足腰の筋力が低下していき、トイレに着くまでに漏らしてしまうことが多くなりました。

 

外出を控えるように

その後オムツを履くようになりましたが、祖父はオムツに抵抗があったようです。

下の世話だけはなりたくない、という自尊心は拭いきれない部分があったのだと思います。

オムツを履くようになってからは、病院以外自宅に引きこもる生活となりました。恐らく、外出時に尿や大便をしたらオムツを履いているので問題はないかもしれませんが、本人は気持ちが悪い状態になるし、周囲にも臭いで気を遣うことになるのが分かっていたから外に出なくなったのではないかと、今になって思います。

 

祖父の楽しみ

生前、祖父は実家裏の藪を切り開き、小さな庭園を造って色々な植物を植えていました。

たまにここを散歩することが楽しみだと言っていました。その庭には私と妹が贈った桜も植えていました。

一年を通して種々様々な花々が咲いていました。

しかし祖父が体調を崩してからはこの実家も手放し、交通の便のいい賃貸住宅に移りました。その後、祖母と悪戦苦闘の日々が続き、最期は入院先で息を引き取りました。

今思えば花が好きだった祖父に、同じ長崎県内にあったハウステンボスで色とりどりのチューリップなどの花々を見せたあげたかった。

 

祖父との思い出

私が中学1、2年生の頃は祖父の実家で一緒に生活していた時期がありました。

今私は鹿児島に住んでいるので、数年に一度会う程度でした。

会えば祖父の若かりし日の武勇伝や人生においての哲学・道徳など、よく話しを聞かせてくれました。

また、祖父は昔から自分のことを「”おじいちゃん”と呼ぶな、”タカ”と呼べ。」と、私たち孫に言っていたので、私は祖父のことを「タカ」と呼び、親しく感じていました。

最期の方はたまに電話で話しをする程度でした。電話の声でだいぶ弱っていることが分かりましたが、いつも私に励ましの言葉をかけてくれました。

 

移乗機器の開発

今私は介護福祉機器の開発に携わっています。

車いすと移乗機器が一緒になったものがあれば、多目的トイレも充実している今なら下の世話もしやすいのではないか、外出したくない一番の理由がトイレ事情のことであるなら、この介護福祉機器の開発は世の中に求められているものではないか、と改めて感じます。

祖父は鹿児島に一度だけ来たことがあります。父と母が結婚するときに来ました。

それ以来、鹿児島には来ていません。もし鹿児島に旅行できたとしたら、指宿の白水館に連れて行きたいです。

眼前には錦江湾が広がり、その先には大隅半島の大自然の緑が映え、それが夕日に染まる姿はとても感動的です。

車いすとドッキングした移乗ラクダでいろいろな所へ連れて行ってあげたい。

そして祖父と話しをしていたときのような笑顔を見たい。

今となっては叶わぬ夢ですが、これから高齢を迎える方々には実現してあげたい一心です。

最期まで笑顔でいられる世の中に貢献したいです。